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ニチジョウ。

ニチジョウ。

永遠の木漏れ日





「おばあちゃん、おはよう」
 しゃ、っと、窓にかかっていた大きな青色のカーテンを一気に開けて、ベッドに横になっているおばあちゃんに声をかけた。ベッドの右側から、逆行と共におばあちゃんを見下ろす。おばあちゃんは皺だらけの顔を中心に寄せるようにさらに皺をつくって――たぶん、目をぎゅっとつぶったのだろう。それからまぶしそうに目を開けた。
「……ああ、弘樹か。おはよう」
 寝起きだからいつもより少し、声がしゃがれている。
「まぶしい? 待ってね、今ベッド起こすから」
 おばあちゃんはまだ頭がうまく働いていないらしく、ぼうっとしていて返事を返さなかった。でもそれもいつものことなので、僕は気にせずベッド脇のボタンを押す。好ましくない機械的な音をたてながらベッドがゆっくりと起き上がっていく。その様子を確認しながら、僕は垂れ下がっているひもを二回、かちかちとひっぱって電気をつけた。外が明るいからあんまり意味はないけれど。
「おばあちゃん、お水あるけどどうする? 飲める?」
「ああ、すまないねぇ」
 よっこいしょ、と言いながらおばあちゃんがベッドの上で姿勢を直す。僕はベッドの頭の方に置いてあるお盆から水の入ったコップをとって、おばあちゃんにゆっくり、優しく手渡した。じゃないと落としてしまうから。
 毎朝七時、おばあちゃんを起こしに行く。そして水分をとってもらって、母さんがご飯を作り終えるまでおばあちゃんの話相手になること。
 中学三年の終わりから高校二年の夏の今現在まで、これは僕の日課となっている。
 中学三年の夏に父方のおじいちゃんが胃癌で亡くなり、それで緊張のの糸が切れたのか、秋頃におばあちゃんが倒れた。疲労だと思って田舎の病院で入院したら、おばあちゃんも癌だった。肺癌。いろいろなことが足早に過ぎていって僕の頭は混乱していたし、家の中もぐちゃぐちゃだったけど、当事者のおばあちゃんはもっと大変だったらしい。
 疲労と癌と、痴呆。おばあちゃんは癌と知ったショックなのかボケてしまって、だから僕は日課をかかさない。忘れられたくないから。おばあちゃんはしょっちゅう入退院を繰り返して起こせないことも少なくないけど、それでもそれなりに効果はあるらしい。ちゃんと、覚えていてくれている。
癌が発覚してから、すぐに長男である父さんのもとにおばあちゃんはやってきた。おばあちゃんが我が家にやってきてから親戚の人がたくさん来るようになった。やっぱりおばあちゃんは、いろいろな人のことを忘れていた。そして、忘れたかわりに、おばあちゃんが手に入れたものがある。
「弘樹」
 水を二、三口飲み終えておばあちゃんがか細い声で僕を呼んだ。
「なに?」
 おばあちゃんからコップを受け取って、お盆にのせながら聞き返す。
 おばあちゃんは皺くちゃの顔で、こどものように無邪気ににかっと笑って、そして――
「おばあちゃんはね、ずっとずっと、生きてるんだよ。死ぬことはないんだ。弘樹も、ずっとずっと生きているんだよ」
 おばあちゃんはもう、ひとりじゃ立つこともできなくなってしまった。
 余命、あって三ヶ月。いつ死んでもおかしくないぐらい転移が進んでいる。
 そして、痴呆になってからずっと繰り返し言う言葉。
 おばあちゃんは永遠を信じている。





「とうとうここもさぁ、近代化ってやつ? 変わっちまったよな」
「そうだね」
 僕と春哉は、きまぐれで久しぶりに駅から少し離れた大きな公園を訪れていた。学校帰りだから制服のままの僕たちは、老人や小学生ばかりの公園で少し目立っている。公園にあるいくつかの入り口のひとつに立っているだけで、なんかもう異質だ。特に春哉なんかは茶髪の上に制服を見事に着崩しているから、おじいさん達の目がちょっと痛い。
「昔はここもこんなに遊ぶものなかったのにね」
 えらく広い公園は、一瞥しただけでは公園を全部見渡すことができない。あらゆる入り口のちょうど真ん中には綺麗な噴水があって、今日みたいに暑い日は小学生たちの独占プールみたいになっている。その噴水からさほど離れていない場所に、滑り台やプチアスレチックみたいな網とか滑車みたいなのとかがちょろちょろある。
 昔、僕が小学生の頃なんかは、ここは遊ぶところなんかじゃなくて、木と草原みたいな、ひどく野性的な場所だった。僕と春哉は毎日のようにこの場所で秘密基地をつくったり虫取りしたり、冒険ごっこなんかをして遊んでいた。その頃の面影といえば、唯一残った大木ぐらいだろうか。自分の家の倉庫から梯子をもってきたりしてなんとか上ろうとしたけど、どうしても上れなかった程の大木だ。何の木かは知らない。
「よく蟻とかペットボトルに入れて、そこに水いれて遊んでたよな」
 春哉がさらりと残酷な思い出から話し始める。
「蟻って泳ぐんだよね」
「その後死んだけどな」
 僕たちはどちらからともなく、噴水を挟んで反対側にある大木に向かって歩きだした。
「大きさの違うバッタを捕まえて無理やりおんぶバッタにしたりもしたよね」
「土の中にいる蝉の幼虫掘り出して遊んだりな」
「くつ飛ばしして、木の上のっかっちゃったからってその木に登ったら春哉枝ごとおっこちたよね」
「おまえはターザンやろうとして枝折って、手首捻挫したよな」
「それもう昔のことだから」
「くつ飛ばしも昔の話だ」
 今考えてみると、ろくなことをやってなかったらしい。
「落とし穴つくろうとしてどっかのおじさんに怒られもしたよね」
「それはおまえが言い出したんだっ。おまえさっさと逃げやがって」
「そうだっけ? 覚えてないなぁ」
 あの時はたしか、地面を掘りすぎたせいで怒鳴り声あげてるおじさんが近づいてくるのが見えたから、すぐにその場所から逃げたんだ。春哉にしらせてると見つかるからひとりで。
 今思いだしてみても、あの頃の日々はとてつもなく楽しい日々だった。楽しくて楽しくて、毎日笑っていた。愛想笑いでも作り笑いでもなくて。毎日笑って、怒って、泣かされて、いたずらして。
 大木に近づくと、待っていたかのように大きな影が僕たちをむかえてくれた。
「この木、もう何年生きてるんだろうな」
 春哉ががさがさした皮がついている幹にがし、っと触れ、天にむかって高く伸びている先を見上げて言った。
「僕たちよりか年上なのは確かだよね」
 ――ずっとずっと、生きている。
 僕は春哉がやるのと同じように大木の伸びる先を見上げた。
 ちらちらと、葉っぱの間から太陽の光がもれている。
 その光景が、なんだか懐かしかった。それでも昔遊んだ頃よりも、大木の空は近づいてしまっていて、明らかに周りも昔とは違ってしまっているけれど。
でもだからこそ、あの輝かしい日々がどうしようもなく懐かしいんだ。
「ねえ、春哉」
「ん?」
 春哉が空を見上げるのをやめてこっちを向いた。小さい頃の面影を残す、まだ少し子供の顔。
「永遠なんてあると思う?」
 ずっとずっと生きているなんて。
 春哉は僕の質問に少し意外そうに驚いてみせたけど、またすぐ目線を上に戻して、少しの間考えているようだった。
「……おまえは、そろそろ僕って言うのやめろよ。女子達がマザコンって噂してんぞ」
一拍か二拍おいて、出てきたのは予想外な答えだった。答えというか、答えてくれていない。
春哉は大木から手を離して、まぶしい光がしつこく照りつける日向に出て行ってしまう。
涼しい木陰には僕だけ残された。
「待ってよ」
 そのまま歩いて行ってしまいそうな春哉を呼んで後を追いかけようと一歩踏み出したら、急に春哉が振り向いた。太陽の光にあたって、春哉がまぶしい。
「僕とかって一人称使うようなガキのおまえは、もういないだろ。今を見てみろよ」
 それだけ言ってまた前を向いて歩いて行ってしまった。
 そんな、こどもの僕達がもういないことぐらい、
「わかってるよ」
 ちいさな声だったから先を歩く春哉には聞こえてないと思う。
 でも僕だって、もう戻れないことなんて知っているんだ。僕がどんどん成長してしまっていて、あんな風に遊んでいた僕たちはもういないことなんて、いくら思い出の場所を訪れてみたってそれは思い出にしかならないことなんて、知ってるんだ。みんな。
 たとえ、老い先短くとも。
 永遠を信じることができるおばあちゃんが、羨ましかった。
 僕はいつまでもちいさいまま、あの輝かしい日々を永遠にくり返していたかった。
 ずっとずっと。
 春哉がどんどん遠ざかっていくけれど、僕はしばらく木陰でじっとしていた。春哉と並んで歩くことが、できそうもなかった。




 家に帰ったら八時を過ぎていた。公園に行ったのが五時ごろだから、その間は三時間も空いている。その三時間もの時間をどうやってつぶしていたのか覚えていない。どうやって帰ってきたのかも覚えていない。気づいたら玄関で「ただいま」と声を出していた。
「あらおかえりなさい。ごはんできてるわよ」
 リビングのドアをくぐったら、エプロン姿の母さんがお盆におかゆや煮物を用意しながら軽い口調で声をかけてきた。
「うん。おばあちゃんはこれからごはん?」
「そうよ」
「僕が行くよ」
 とさ、っといつも自分が座る席にスポーツバッグを置いて言った。
「弘樹はごはんは?」
「いらない」
 なんだか、わけもなくおばあちゃんに会いたかった。
「ねえこれだけでいいの?」
 黒と赤の漆器のお盆の上にのせられたおかゆとかぼちゃの煮物を指差して聞く。
「ええ、これだけ。あなたなにか食べてきたの?」
「うん。部活帰りに結城とラーメン食ってきた」
 さらっと嘘をついた。本当は今日は先生が出張しているから部活はない。こういう風にごまかすのは得意だ。
「ああそう……そういう時は連絡いれておいてね」
「ごめん」
 それだけ言って、僕はお盆を持って逃げるように二階のおばあちゃんの部屋に向かった。ああいう嘘はたいてい話が長引くほどぼろがでるから。
 階段を登り終えておばあちゃんの部屋のドアを一度ノックしてから、返事を待たないですぐに入った。
「おばあちゃん」
 おばあちゃんは暗くなった窓の外を見ている。
「おばあちゃん、ごはん、持って来たよ」
 近くまで行って声をかけ、隣に用意してある椅子に座った。ベッドの横にお盆をおく。
「ああ、弘樹か。そうだ、うちの猫は元気かい? 今はお産の時期だから大変だろう」
「おばあちゃん、うちは猫なんて飼ってないよ。それよりほら、ごはん。今日は卵粥とかぼちゃの煮物だよ」
「ああ、おいしそうだねぇ」
 変なことを言い出すのはいつものことだ。癌のせいで徘徊や暴れることができないのが幸いだ。幸い、と言ってしまっていいのだろうか。
 僕はおかゆをレンゲでちょっとすくって、おばあちゃんの口元に持っていった。
「はい、おばあちゃん。熱いから気をつけて」
「いつもありがとうねぇ」
 そう言いながら、目を細めて皺だらけの顔で笑った。あったかい。
「どういたしまして」
 何回か、おなじようにおかゆを口元に持っていくと、おばあちゃんは嬉しそうに食べた。かぼちゃもおはしでちいさくしてから口元に運んであげた。
 幸せそうで、涙がでそうだった。
「おばあちゃん」
 呼ぶと、細い目と薄い色の唇でちいさく笑って、無言で聞き返してきた。
「おばあちゃん、永遠なんて信じるの?」
 永遠なんてないんだよ。
 本当はそう言いたかった。
 なのにおばあちゃんは皺くちゃな顔で笑って、また。
「おばあちゃんはね、ずっとずっと、生きてるんだよ。死ぬことはないんだ。弘樹も、ずっとずっと生きているんだよ」
 一字一句間違わないで言うから、僕まで覚えてしまった。いつもおんなじ、幸せそうな笑顔で言うんだ。
「おばあちゃん、幸せ?」
 泣きたくなった。
「ああ、幸せだよ。こんなに優しくしてもらってねぇ」
 病気でかすれた声まで、全て幸せそうにあたたかかった。
 おばあちゃんは何も知らない。わからない。
 知らないことはきっと、幸せなんだ。おばあちゃんは知らない方が、幸せなんだ。
 おばあちゃんの笑顔があまりにも幸せそうだから、このままでいいのかもしれない。おばあちゃんが幸せなら、永遠だって。
 おばあちゃんの中には存在しているんだ。
 人はいつだって変わっていて、成長していて、永遠なんてないけど。
 時間は進み続けるけど。
ただ、おばあちゃんが死んでしまうまで。
せめてそのちいさな瞬間までは。
――僕で、いさせて。
永遠を信じているおばあちゃんのことが大好きな、僕のままで。



   end


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